学校で教わったこと

「おのおの、自分のことばかりでなく他人のことも考えなさい」(新約聖書 ピリピ人への手紙 第2章4節)というのは、私が通っていた学校のモットー。
入学式の礼拝で、校長先生がお祈りの最初に「この学校の入試に受からなかった人もそれぞれの道で恵みが与えられますように」というような意味のことを言われて、子ども心に驚いたことを今でも覚えている。今にして思えば「その精神に照らし合わせてどうよ?」という先生も複数いたが……。まあ、キリスト者だろうが、しょせん”にんげんだもの”ね。私は在学中は部活のひとつとしてキリスト教青年会に入っていたし、割と熱心に教会に通った。だが結局、周囲の"クリスチャン"に反発を感じることが多々あり、キリスト者にはならなかった。今後もたぶん特定の宗教に帰依することはない。
とは言え、誰か個人の考えとしてではなく、誰かの口から言われたとかでもなく、絶対的な「教え」として何度も繰り返し聞いた言葉というのは、年月を経ても心に残っているもので、それはいいことだったなと感じている。
他人のことも考える、というと説教じみているようだけれど、想像力を働かせるということだと思う。現首相が(名前を書くのもイヤ)広島と長崎の式典における挨拶のことを「セットで」「起案」している、と発言していた。単なるルーチンワークのひとつとして心のこもらない言葉を並べ替えているだけ、という本心を、こんな風にぬけぬけと口にしたら聞いている方がどう感じるか、それくらい想像できないのか? あまりにも情けなくて涙が出る。

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# by oliva16 | 2015-08-06 14:03 | くらし | Trackback | Comments(3)

新しい出会い

昨日は蔦屋書店へ『風と共に去りぬ』の新訳刊行完成記念、久住昌之さんと鴻巣友季子先生のトークを聴きに行った。終わった後の打ち上げにも参加させていただいたのだが、トーク中のお話も、打ち上げで伺ったお話も刺激に満ちていた。

久住さんのブレない姿勢がカッコいい。「面白けりゃいいんだよ」「いびつなところがある方が共感を得て、長く残る」(正確にはこういう言い方ではなかったが)。
「『風と共に去りぬ』の原作者ミッチェルが登場人物全員を愛していて、楽しんで書いているのがわかる、そして訳者も楽しんで訳しているのがわかる」というのには共感した。ミッチェルはしかし冷徹な目で、どの人物とも距離を置いて書いている、とも。その態度が『源氏物語』を書いた紫式部にも通ずるものがある、という洞察だった。

素晴らしいお話を伺いながら、自分の中にもっと読書したり遊んだりという経験が蓄積されていたら、今日のお話をもっと深く理解し納得できるんだろうな…と、読書経験の少ない自分にいつものごとくガッカリ。でもめげずに、ROGANにも負けずに後半生、読書に限らず色々なことに貪欲になろう、と思ったことだった。打ち上げではより一層濃い話を伺うことができて、「口ポカン」で聞いているだけの自分だったが幸せだった。混ぜていただいて、本当にどうもありがとうございました(感涙)。

以下は、昨日の感想とは無関係に最近よく思うこと。
翻訳の勉強を始めてから、以前よりもコンサートや舞台、美術展を楽しめるようになった気がする。「誰の視点で語っているのか」「作者の意図がどこにあるのか」「誰と誰の声が重なっているのか」などを気にしながら物語を読み、訳すということは、クラシック音楽を現代の舞台でどう演奏するのか、まだ演奏をどう受け止めるかということにも通じる。また絵を見ていても、描いている画家の視線について考えたり、人物画であれば描かれた人物の視線が見つめているものについて考えたり、といった見方をすると面白い。こんなことをいうとまた『真面目過ぎ」「お勉強ぽい」、とか言う人がいるかもしれないが、より細かいことに気づけるようになると、感じる度合いも変わってきて楽しい。
大げさかもしれないが、前よりも人生が楽しい…現実には老親のこととか仕事のこととか、色々あるにはあるけれども。
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# by oliva16 | 2015-07-25 11:27 | ひと | Trackback | Comments(2)

自分の肩書きについて

これまで自分の口からもメールでも、私はひと言もウソはついてない。しかし「音楽公演関係の翻訳をしている」「独語・伊語が専門」の人、というまとめ方をされると残念ながら違うので冷や汗。「そういうものにわたしはなりたい」としか言えない。

まぁいちいち否定して訂正して回るより、そういうものに少しは近づけるように…努力しよう…
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# by oliva16 | 2015-07-25 09:08 | しごと | Trackback | Comments(0)